|
S a c r i f i c e / サ ク リ フ ァ イ ス
第五章( 6 )
楽器を取り落とす音に、メイドのメリルは慌てて王女のもとへ駆け寄った。
「リビティアさま!」
「平気よ。……仕事続きで、疲れたのかもしれないわ」
やっと公務が一段落したところだった。福祉・医療関係の職務を担っている彼女は、家族の中では父に次ぐ仕事の量をこなしていた。体調がますます悪化してついに倒れてしまったグレインや、王城内の騒々しさに何かを感じて怯えるプリムローズに多く仕事が行かなくてよかったと彼女は思う。
「医務室へ行かれますか?」
「平気よ。それに今は、グレインがいるし。……あの子、今年に入ってから、いよいよ頭痛がひどくなったようだけれど……」
何かを言いかけてリビティアは止めた。
黙って控えているメリルに楽器を渡し、溜息と共に窓辺に歩み寄る。
「それにしてもあのひとは、一体なにをしようとしてるのかしらね」
淡い初恋。あの若い騎士と一緒に過ごした日々は、もう遠い昔のことに思える。
レースのカーテンを開き、城下を見下ろそうとしたリビティアは、異変に気付く。
「――メリル。私が見ているのは幻ではないでしょうね」
「……まあ、なんてこと……!」
霧が。
白い濃霧が、城下をみるみる覆っていく。
「まだ九月も下旬ですのに……」
「ぴったりと日を合わせて来ることはないと思っていたけど」
霧生の乱を経験したふたりは、動揺を抑え、素早く身支度する。
「誰も気付いていないのかしら……?」
「騎士が来ませんね。……害のない、ものでしょうか?」
セインレドに霧が生まれることはない。どんな薄いものでも。
メリルが口にしたのは、根拠のない、むしろ信じがたい希望的観測であった。
「なんだか静かだわ」
「……様子を、見て参ります。姫さまは――」
ノックの音がして、二人は顔を見合わせた。
「どなた?」
「失礼します、リビティア姫さま、マーガレットでございます」
プリムローズ付きのメイドだった。焦燥した顔つきで立っている。
「何かあったのね」
「いえ、あの……なんの連絡も入ってきてはいないのですが、城下に霧が」
「さっき見たところよ」
「騎士は呼びに来ませんが、霊園に避難するに越したことはないと思いまして、プリムローズさまにそう申し上げましたら、怯えて寝室に閉じこもってしまわれて……」
リビティアはドレスの裾をつかんで早足で妹の部屋に向かう。グレインの部屋は私室と寝室が分かれていないが、リビティアとプリムローズの部屋は寝室が別にある。
可憐な調度品でまとめられた淡い部屋を通り過ぎ、かたく閉じられた寝室の扉の前に立つ。
「プリム? 私よ」
「おねえさま……?」
「まだ何も起こってはいないようだけれど、霧が出たことは心配だわ。王族霊園に避難しましょう」
「いや……! わたし、わたしはここにいます」
「だめよプリム。確かに寝室には結界がはってあるけれど、強固なものではないわ」
「いやです! 出たら、出たら殺される!!」
「私たちが守るわ。本当よ、約束する」
「違うの、違うの……殺されるのはお姉様や、マーガレットや、メリルだわ! みにくい魔物にあたまから食べられるのよ……血と臓物をながして……」
霧生の乱で魔族と遭遇したことがトラウマになって、プリムローズが王城から一歩も出られないようになってしまっていることは、城の者のみならず国民のほとんどが知っている。
けれど彼女が、自分の見たものを誰かに言ったことはなかった。
「八年前に、それを見たの……?」
返事の代わりに、すすり泣く声が聞こえた。
リビティアがどうすることもできずに立ち尽くしていると、マーガレットが扉に両手をついて、
「姫さま。それでは、マーガレットがここで、姫さまをお守りいたします」
マーガレットはそう言って、壁にかかっている騎士団のレイピアを手に取った。
「わたしは騎士の娘です。剣をつかえます」
「……そうね。ひとまずだけれど、お願いするわ。私たちは階下の様子を見てきます」
騎士然として立つマーガレットを背にして二人は廊下へ出る。
王城なのだからもともと騒々しいところではないけれど、それにしても静かすぎることが、二人の気にかかった。それに、空気が淀んでいるような、変な心持ちがする。
城内では他に誰も異変に気づいた者はいないのだろうか?
――そんなはずはない。
「とりあえず二階へ行きましょう。お父様とグレインがいるし……」
昇降機へ向かいかけた、その刹那。
甲高い音をたてて背後の窓が割れ、濃霧が侵入してくる。
「これは――」
「姫さま!」
メリルの指さす先には、黒衣をまとい鎌を持ち、まさに死神のようないでたちの者たちが窓から突入してくる姿があった。
間違いない。あの乱の再来。
「結界をはります。私の寝室に」
リビティアの寝室にも僅かながら結界がはってある。リビティアはある程度しか魔導を使役できないが、それでも元々結界があるのなら、それを強固にするくらいのことはできる。
「姫さま、プリムローズさまとマーガレットは」
「わたしのことならばご心配なさらずに! かならず姫さまをお守りします」
「――――」
唇を噛んでリビティアはメリルの手を引き、寝室へ飛び込んだ。
「……風よ、どうか我らと我らが国を、お守りくださいますよう」
廊下で剣戟の音が聞こえはじめる。
リビティアがはっとして立ち上がり、廊下側の壁にぴったりと耳をくっつける。壁は厚いが、それでも聞こえるほど大きな音だ。
メリルが心配そうに顔をあげる。
「マーガレットでしょうか?」
「いえ、メリル、複数がうちあう音だわ。騎士が来たのかもしれない」
剣戟の音が止むまで、リビティアとメリルはただ手を握りしめて待つことしかできなかった。
廊下で金属どうしがぶつかりあう甲高い音がする。
プリムローズはベッドの端でただ震えていた。
怖い。怖いの。みんな魔物に食べられてしまう。あの時みたいに。血と臓物をまき散らして、叫ぶこともなく死んでしまった。幼くて、怖がりで、甘えん坊だった自分に優しくしてくれたひとたち。わたしを逃がすために死んでしまった。
「マーガレット……?」
「おりますよ、姫さま。廊下で戦っているのは騎士たちです」
押し殺した声が返ってきた。幸いにも、プリムローズの私室は戦闘場所にはなっていない。
「結界をいま解くから、あなたも隠れて……」
「だめです。結界はそのままに。大丈夫。わたしはこれでも、新米の騎士よりは強いんですよ」
「それだったらそばにいて、怖いの、わたしは――」
プリムローズは震える手で、黄緑色に燃える蝋燭の火を消した。
魔力にうといプリムローズには分からないが、これで結界を調節するのだという。
ややあって、マーガレットがレイピアを手にしたまま入ってきた。
「失礼します。姫さまのことは、これでお守りしますから。……現在、どうやら騎士たちが優勢のようです。もう敵は少ない。廊下から音がしなくなったら、霊園まで逃げましょう。あそこまで行けば、強固な結界がわたしたちを守ってくれます。それにひともたくさん、いるでしょう。こんなところで震えていなくてもいいのですよ」
そう言って元気づけてくれるマーガレットの顔を、プリムローズはじっと見つめた。
「……わたしを」
誰にも言ったことはなかった。
怒られてしまうから。
「わたしを庇って、死なないで……庇わないことで、わたしが死んでもいい」
あのときから。目の前で従者たちが傷を負い殺されていくのを見てから、誰かに庇われるくらいなら次はちゃんと死にたいと思っていた。
ひとの命を背負って生きる業に耐えられるのか。
プリムローズは自分の強さを信じられない。
「約束して」
怯え、戸惑っていた少女の影は、その時ばかりは跡形もなく消えていた。
睨みつけんばかりの強い目線にマーガレットは息を呑む。
「――善処します。その答えではいけませんか」
「善処します、なんてその場しのぎの言葉だと、お兄様が教えてくれたことがあります」
剣戟の音は止んでいた。
「……行きましょう、マーガレット」
恐怖のあまり声が震えていても、プリムローズは王城の外に向けて歩き出す決意ができた。
廊下へ出ると、おびただしい血がまき散らされている。その中に、甲冑を着た二人の騎士が倒れていた。
足がすくむプリムローズに対し、マーガレットはすぐに駆け寄る。
「――敵は?」
「……倒した。身体が……消えた……魔導の、一種……だろう」
息も絶え絶えなその騎士は、立ちすくむプリムローズの方を見つめた。死を直前にむかえた者の眼差し。ただ呆然と見つめ返す彼女に、彼は最後の望みを呟く。
「王女様、どうか……私に、祈りを……」
「……母なる大地に躯を返し、風のもとへ還りなさい。あなたの行く道には光が溢れ、あなたを安寧へと導くでしょう。あなたの高潔なる騎士の志は、再び生命となって、この地へと、戻ってくる……」
「ありがとう、ございます……」
もう一人の騎士はすでにこと切れているようだった。
マーガレットが、涙を浮かべるプリムローズの手を引いて、昇降機へと向かう。
(この静けさは何かしら……)
国に眠る風の魔力を利用した昇降機がちゃんと動くのか不安ではあったが、国の魔力自体に異変はないのだろうか、無事に彼女たちを一階まで送り届けてくれた。
しかしその途中に通過した三階や二階の廊下では、遠くの方で微かに剣戟の音が聞こえた。やはり王城は危険だ。一刻も早く逃げなければならない。
マーガレットは手に滲む汗をぬぐい、剣を握り直す。
一階部分の廊下には、誰の姿も見えなかった。
裏門へ辿り着き、そっと開く。門番をしていたはずの騎士たちの姿はない。
「……姫さま、気を確かに」
気付くとプリムローズが、裏門の前で立ち止まっていた。瞳孔が開き、冷や汗が滲んでいる。
八年前から彼女は、王城の外に出たことがない。トラウマはそう簡単に消えるものではないのだ。ましてや傷を負ったのと同じ状況下では、逆にトラウマを助長させてしまうこともある。
マーガレットは駆け戻り、彼女の汗を拭って手を握る。
「姫さま、あと少しです。大丈夫です、わたしが――」
「後ろに……」
唐突なプリムローズの呟きよりも早かったか。
熊のように大きな異形の魔物が、マーガレットを食いちぎる。
プリムローズの目の前で。
(おなじだわ……)
あの時と、何も変わらない。
繰り返される悪夢。
わたしがこわれてしまうまで、なんどでも。
プリムローズの頭をも喰おうとしたそれの背後から鋭い一撃が飛んで、魔物はプリムローズの横を抜けて城壁に追突し、ぴくりとも動かなくなる。
駆けてきたのは砂色の髪をした背の高い男、フレイスの仲間であるヴァークだった。
彼は喰われた娘の無残な姿に顔を曇らせ、その遺体の前に俯いて座り込んでいる簡素なドレス姿の少女に目を止める。
「……姫さん?」
王家の紋章を認めて、そう声をかけてみる。しかし反応はない。
膝をつき、その目を覗き込んだとき、ヴァークは憤りが胸を締め付けるのを感じた。
彼女はもう現の何をも見ていなかった。
口元に小さく笑みを浮かべて、ただ黙っている。
「――――」
もう少し早く、ここに辿り着いていれば。
そんな悔恨が無駄なことぐらい、ヴァークは疾うに知っているというのに。
「遅かったな……」
人形に成り果ててしまった姫の力ない身体を抱き上げて、ヴァークは王族霊園へと向かう。
姫を送り届けたら、一刻も早く王城へ向かわなければいけない。
そして。
時間は少し遡り、城下を霧が覆ったのと同じ頃。
――グレインは、夢を見ていた。
母親の形見である美しい装飾剣を片手に、霧の侵入している城の廊下を徘徊する夢。
足取りは軽いが、どことなく浮かんでいる感じがして我ながら気味が悪い。
目線は勝手にあちこちと彷徨う。見慣れぬ城だ。いや、知っているかもしれない。母親を刺した剣が手に冷たい。冷たい手が自分の頬を包む。なんて脈絡のない夢だ。夢なんてそんなものか。
頬に、服に、飛沫がかかる。――なんだろう? よく分からない。
やがて目の前に重厚な扉が立ちはだかる。
ゆっくりと開く。
見慣れぬ男――いや、見慣れているかもしれない、男が、振り向いて驚いた表情をする。
何を驚いているのだろう。
揺らめき、滲む視界。内心で舌打ちをするのは誰だろう? ただ目を見開き、何事かを呟く男の胸に焦点を合わせ、剣の切っ先を向ける。
……あの時も心臓を刺した。
二度目ができない、なんてことはあるまい?
誰かの声に身を任せ、全体重を剣の切っ先にかけて男の心臓を貫いた。
ゆっくりと時間をかけて倒れていく男。
剣を引き抜くと、飛沫がかかる。――なんだろう? 赤い。ぬるい。
世界が色を取り戻して行こうとする。
また殺してしまった。二度目の、親殺しの夢。
夢。
「――レイツ」
夢じゃなかった。
スコルツァは目の前の光景に息を呑んだ。
城下都市に霧が現れ始め、王城の人々が救援と避難に急ぐ中、彼は医務室から姿を消したグレインを探しているうちに、廊下を転々と続く血の跡に遭遇した。倒れているメイドや家臣たち。その中にはグレインを看ていたはずの医師の姿もある。スコルツァは仕込み杖を片手に、とにかく血の跡を急いで追っていた。赤い道は、二階の国王執務室へと続いていた。
扉は開いている。
グレインと国王が向かい合って立っていた。
血にまみれた姿で、グレインは剣の切っ先を国王から抜いた。
「――レイツ」
彼が振り向いた。
スコルツァの言葉に目が覚めたように、どろりと濁っていた双眸がにわかに生気を取り戻し始める。
だめだ。
目覚めたら、いけない。
「あ、ああ……」
剣を取り落とし、彼は血にまみれた両手を見つめる。
「違う。レイツがやったんじゃない」
「…………う、」
「違う!!!」
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!」
← / × / →
|