4/
エウール公国は三年前とそう変わらず、開放的な雰囲気だった。
かつてお姉様とその旦那様、そして栖さんが通っていたエウール総合芸術大学は、公国の第二首都とも言われるほどの大都市にある。さすがに芸術大学があるだけあって凝った造りの街並みを、自動車で駆け抜けていく。
大学を通り過ぎ、閑静な住宅街の一角にある家の前で、栖さんは車を停めた。
車から降りるのが早いか、絵本に出てくるような赤い屋根の家から、お姉様が出て来た。一目散に私のところへ駆けてきて、私はただぎゅっと抱きしめられる。
甘い匂いがする。それ以上に懐かしくて、優しい。
こらえた涙が溢れそうになる。
でも、もう泣かないの。
久しぶりに静さんにも会った。それから、もうすぐ三歳になるという澪ちゃんは、初めて見る客人に興味津々の様子だった。私の髪を触ったり、服を引っ張ったりする。
こんな年齢の子どもと触れ合うのは初めてなので、どうしたらいいのか分からず、お姉様に目を向ける。お茶を入れてくれていたお姉様が、澪ちゃんを抱き上げた。すっかり母親のようだ、と思うと急に寂しくなった気がした。
お姉様は、お父様とお母様のことについて訊かなかった。もしかしたら既に手紙か何かが来ているのかもしれないし、私に気を遣っているのかもしれないし――ただ、訊きたくないのかもしれない。様子を見ていてもよく分からない。
一息吐いたあと、澪ちゃんを静さんに任せて、お姉様は私を散歩に誘った。
卒業後、静さんが講師をしている総合芸術大学の敷地内を歩く。往来する人々の服装も人種も様々。雑多で騒がしくて何もかも溢れかえった不思議な空間。
「――ここにいてくれるんでしょう?」
お姉様が言った。
私がずっと自動車の中で考えていたこと。いてくれるんでしょう、なんて、まるでお姉様の望みであるかのように言う――実際に望んでくれていることは分かっている。けれど、異国に放り出されてきたような妹を放っておけない心配と優しさが大きいのだとも分かっている。お姉様や静さんに迷惑をかけるようなことはしたくなかった。澪ちゃんもいるのだし、何かと負担も掛かるだろう。
「気を遣わないでほしいの」
「栖さんが、私をもらってくださるそうです」
気持ちの問題だと栖さんは言った。もし私が独りきりなら、そうだっただろう。
でも、お姉様がいる。愛する夫と子と安定した生活を持つお姉様が。
――迷惑をかけられるわけがない。絶対にかけたくない。
嫁げば全てが解決する。それに、栖さんは素敵なひとだし、しっかりしている。
「行くの、愛結」
「――行きます」
お姉様は心配そうな顔をした。何を不安がることがあるのだろう。
「栖さんが、すぐ決めろと言った?」
「いいえ。急がなくていいとおっしゃいました。でも、もう決めたのです」
「いつ決めたの?」
「―――」
「今でしょう。今決めたのね」
右は緑色が強くて、左は茶色が強いという不思議な色合いの眼が、じっと私を見る。いつでも美しくて、きっといつまでも美しい姉。嫁いでからも私の憧れであり、心の拠り所だった人。
やっぱりお姉様は敏くて、すぐに見破られる。
「でも、私はずっと栖さんが好きでした」
「憧れと恋は間違えやすいわ。特に当時のあなたくらいの年齢では」
「お姉様は反対するのですか?」
口調が少し強くなってしまった。はっとして訂正する前に、お姉様が首を振る。
「私たちが想像する以上に、あなたの心は窮地に陥っているのね。私がどうこう言えることじゃないかもしれない、けれど聞いて。あなたの家族はみんな、あなたの幸せを願っているわ、愛結。それに、お父様とお母様に親不孝ばかりしてきた私には、あなたの幸せのために尽力することがお父様たちへの親孝行にもなるのよ」
かつて、お姉様が結婚承諾の報せを聞いたという大学構内のカフェで、今度は私の結婚について話している。ほんの数年のことなのに、長い年月が経ってしまったかのように感じた。
「栖さんとの結婚に反対はしない。むしろ嬉しいことよ。でも、家庭を持った今、私はとてもよく考えるの。好きでもない人と結婚したらどうだったかしら、こんなに幸せになれたかしらって。それにあなたは若いもの。私も割と若くに結婚した方だけれど。ここにいて、働いたり学校へ行ったりして、いつか誰かと出会って結婚して――。そんな人生でもいいじゃない。結婚を急がなくていいのよ。すぐに状況が落ち着くわけないもの。時間はたっぷりあるわ。あなたが遠慮さえしなければ」
「・・・・・・よく考えます。でも、行こうという気持ちは変わらないと思います」
「そう。――栖さんもしばらくこちらに滞在するから、色々と話してみるといいわ」
「紗那国にお帰りにならないのですか?」
「建築家としては、エウールでの仕事がメインだから」
知らなかった。やはり貴族という身分柄、自国ではやりにくいところがあるのだろうか。
温かくて甘い飲み物をかきまぜる。なんとなく目線を落としたままだった私に、お姉様は自然な明るさで提案した。
「あなた、ここにいる間が暇なら、この大学のお手伝いをしてみない?」
カードに学生の署名と学籍番号を書き、判を押して綴じる。
フヨルニルの重たい画集を借りて行った学生の後姿を見送って、ひとつ息を吐いた。
お姉様が紹介してくださった『大学のお手伝い』というのは、大学図書館の司書だった。それなりに(貴族として育って来たのだし)教養があると判断された私は重宝されているようで、それが何だか嬉しかった。
「愛結ちゃん、今日はもういいわよ」
定時より早い館長の言葉に顔を上げると、館長の後ろに立っていた長身の人物が笑った。
勤め人の正装なので一瞬誰だか分らなかったが、栖さんだった。
「大事な話があってね」
そう言った時の栖さんはもう笑っていなかった。
だから、予感はしていた。
ひと月ほど前に、詩絵お姉様が図書館の司書という仕事を紹介してくれた時に来た、学内の喫茶店だった。学生たちで賑わっている。その奥の方に席を取ると、懐かしそうに栖さんは言った。
「大事な話をする時は、いつもここだ」
「前にも?」
「静が詩絵さんに求婚したのもここなら、鳳家から結婚を承諾するという返事を聞いたのもここだ。澪の――子どもの名前が決まった時もここにいたし。俺は卒業してからはそれほどこの大学には来なかったけど、静と詩絵さんは今でも割と来るそうだ」
この前も来ましたというと栖さんは笑った。
うまく繕っているけど、元気がない。
「お話とはなんですか」
「お嬢さんの実家のことだ」
「・・・父と母のことですか」
「いなくなった、そうだ。すべて清算して」
手紙を読み上げるかのように淡々と告げられた言葉。
いなくなった?
それは一体、どう受け止めればいいのだろう。何となくわかる、わかるけれど。
私がただ呆然としている間、栖さんも黙って紅茶を飲んでいた。彼は珈琲よりも何よりも、紅茶が一番好きなようだった。芸術品をつくりだす、きれいな手を見つめる。
――愛結。囚われずに生きなさい。
姿を消した両親はそう言いたいのだと、私は理解した。両親の真意はそうでないかもしれない、けれど私はそう思うことにした。
だってきっと彼らは、訃報が私たち姉妹の耳に入らないところで亡くなるだろう。
珈琲にミルクの混じった甘い飲み物に口を付けた。ぬるかった。
「替えてもらうか」
「いえ」
でも栖さんはウェイトレスに言って、熱いものと取り替えてくれた。
一口飲む。熱い飲み物が喉を通って落ちていく。その動きと同じように、私の気持ちも少し落ち着いた。栖さんを見上げる。細長い指を折り曲げてカップを持つ手がきれいだ。
「お姉様はもう、そのことをご存知ですか?」
「詩絵さんから聞いた。ショックは受けたようだが気丈な様子だった」
お姉様にはもう守るべき家庭がある。
若草色の瞳をじっと見つめると、栖さんも真摯に見つめ返してくれた。
このひとなら大丈夫だと思う。
「紗那国に、連れて行ってください」
「――俺の家族に、会う?」
「はい」
ふむ、と栖さんは少し難しそうな顔をした。
私が困惑していると、別に困ってはいないんだ、と苦笑いしながら言う。
「この話を聞いたことであなたが俺と結婚しようという向きに踏み出したのなら、それは少し弱みに付け込んだ形になるような気がしたんだ。あなたには頼るところが俺か詩絵さんのところしかなく、そして詩絵さんのところに、いつまでもいるわけにはいかないと思っているから」
「――私に弱みなどありません。何処も彼処も、弱いところばかりなのです」
「そうかな。あなたは優しいだけだ」
栖さんは両手を机の上で組んで、私の顔を見た。
「たとえあなたが俺との結婚を承諾してくれなくても、俺は決してあなたを見捨てることはない。あなたが独り立ちするまで、何らかの形で援助しようと思っている――見返りは要らないが、それを負担に思うのなら、いずれ返してくれればいい」
「そこまでしてくださるのは――」
「あなたが好きだから」
はっきりと言われたのは初めてで、驚いて呼吸が止まる。
栖さんは少し照れくさそうにして、笑ってみせた。
「無理はしなくていいんだよ。それは詩絵さんと静だって本当に思っている。俺とはベクトルの方向が微妙に違うが、二人もあなたのことが本当に好きなんだ」
今日は俺も詩絵さんに夕食を招ばれてるんだ、と言って栖さんはゆっくりと立ち上がる。
その背に私は言った。
「紗那へ行きます。――行きたいのです」
夕食の席で私はそのことをお姉様と静さんに告げた。二人とも私の意志をよく確認した上で、安堵と祝福の言葉をくれた。
そして翌朝、私はお姉様とその家族に見送られて、栖さんと一緒に紗那国へと向かった。
|