2/

 

 あれから父母は、古くから仕えてきた使用人にも少しの財産を分け与えて引き払い、私に持たせるために残りの財産をすべて簡潔に纏める作業をしていた。
 私も鳳家の者なのだから、一緒に死ぬことになってもいい。だから一緒に生きてみようと説得しようとしても、いざ口に出そうとするたびに父の眼差しがそれを邪魔した。――それは本当に、父母にとっては親不幸にしかならないのだと、静かなその目は雄弁に語っていた。何でもないと首を振って、部屋で思い切り泣くようなことを何回もした。
 そうやって己の無力さを噛み締めるようなことばかりをして私の涙が枯れ、疲弊しきった頃には、父母はもう鳳の屋敷を完璧に整理していた。悲しいのは一緒なのだから、泣いてばかりいないで私も何か手伝えば良かった、別れる前にもっと沢山話す機会を持てばよかったと後悔した。私はいつも、嫌になるくらい鈍いのだ。



「明日の朝に出発なさるそうですね」
 最後まで中庭にある医療小屋に残ってくれていた高志(タカシ)医師(せんせい)は、私が別れの挨拶をしに行くと、いつものように温かいミルクティーを出してくれた。一年前、今より更に未熟でばかみたいだった私が、蛮族と結婚させられそうなのと医師に泣きついたことが思い出された。
 朱鳥さんが仲間の手引きによって王宮から逃げ出した次の日すぐに(ウキ)さんが出て行って、寂しがる私を慰めて励ましてくれたのも医師だった。考え方も何もかも甘かった私に辟易する部分もあっただろうに、時に厳しく叱りながらも、結局医師はいつも優しかった。
「ええ。・・・でもお父様とお母様は屋敷に残ると言うのです」
「公爵と夫人は、二人の愛娘がこれからも無事に生きて行くことだけを考えていらっしゃる。詩絵お嬢様も愛結お嬢様も、特に公爵のことを高慢だと思うことが多々あったでしょう。けれど公爵は昔から変わりなく、二人のお嬢様のことを一番に考えていた。貴族という難しい立場から、その気持ちを尊重することができなくて悩んだこともおありだったでしょう」
「――いまになって気付くなんて、私、ばかね」
「朱鳥を逃がしたことを後悔なさっていますか?」
 かつて流浪していた身、幼い頃の朱鳥さんを知っている高志医師は、朱鳥さんの逃亡には関与しなかったという。浮さんがやってきたことで奪還が行われると確信していながら止めなかったのだから、消極的には加担したのだが、と言っていた。
「・・・・・・後悔はしているわ。だけど私は、あのまま朱鳥さんが王宮にいて王位を継いで私と結婚して、という未来を望んではいなかった」
「二律背反。どちらを選んでも後悔する道でした」
「それならば血統主義に巻き込まれた朱鳥さんに自由をお返しすることができてよかったのかしら。・・・けれど、間接的に私は、貴族たちを没落させていく引き金を引いたのね。この鳳家も・・・」
「もしやと思いますが、ご自分を責めているのであればおやめください」
「私の納得のいく答えが出ないことは、もう分かっているの。大丈夫よ。ただ」
 とてもかなしいの。
 涙があふれないように、ぎゅっと目を閉じた。
 自分のことも朱鳥さんのことも浮さんのことも高志医師のことも、誰のことも責める気はない。
「――私、もう行きます。まだ少し支度があるから」
「お嬢様」
 席を立とうとした私を医師は引き留めた。
 そして唐突に、あのひとの話題を振った。
「詩絵お嬢様の義弟の(スミカ)という方とは、まだ文の遣り取りを?」
「このような状況になってからは、お姉様にすら返事を出していません。最後に私から送ったのは、半年ほど前だったでしょうか。――栖さんからは、この前に短いお手紙を頂きました」
「彼は未婚だそうですね」
「報告のないところを考えると、そうなのでしょうね」
「愛結お嬢様。彼は貴族です」
 一瞬、理解しかねて医師を見返す。
 栖さんが貴族?
「しかし、お姉様は(シズカ)さん――栖さんの双子のお兄様のもとへ嫁いで平民になりました。身分の差のことで、お父様と静さんやお姉様はあんなに揉めていたではありませんか」
 お姉様が静さんとの結婚を認めてもらうために火旺国のこの屋敷に帰ってきた時、私は初めて栖さんと出会ったのだ。私はまだほんの子どもで、彼は素敵な大人だった。
「今、詩絵お嬢様ご夫妻が暮らしていらっしゃるエウール公国の隣国――火旺国の隣の隣ですね。そこに紗那(シャナ)という国があるのは勿論、ご存知でしょう。大羽(オオバ)静、栖と名乗ってここへ来た彼らは、紗那国の三大貴族の一つ、志樂(シダラ)家の本家嫡男です。彼らの伯母は紗那国の王妃。貴族の中でもずば抜けて高い地位にある家柄です。紗那国はここと違って血統主義というのは特に根付いてはいませんし、志樂家というのは特に昔から平民との結婚が多かった経緯もあってか身分というものは気にならなかったようで。詩絵お嬢様も、志樂静氏も、貴族より平民としての生活を望んでいらっしゃったようです。静氏の父親は平民出身なので、その家に養子入りして平民の戸籍を得たそうです。ですから双子の兄は平民、弟は貴族という奇妙なことになったのです」
 私は今になって、栖さんのお手紙の流麗な文字を思い出した。
 多少崩れていたのが本当かわざとかは分からないけれど、確かに教養のある文字だった。
 貴族だったからなのか。
 でも。
「それがどうしたというのです」
「お嬢様。志樂に嫁入りなさいませ」
 栖さんは少女の頃から私が恋していたひとだ。
 年の差が大きいから、それは憧れに近いかもしれない。
 高志医師はそれを知っている。そうして、このような残酷なことを言うのだ。
「私は没落貴族の身。そのような高い身分の方とはつりあいません」
「申し上げた通り、志樂家は婚姻の際に身分など気にしないのです」
「――ならば尚更でしょう。貴族が身分を気にしないということは、お姉様と静さんのように、互いの想いを重要視するのです。栖さんは私に特別な好意を持ってはおられません」
「確かめないことには分からないと思うのですが」
「伝えれば壊れてしまう。私は心に秘めると決めました。それに、栖さんも今の鳳の状況は知っているでしょう。窮地にある兄嫁の生家からそのような申し出がされれば断りにくいことこの上ない」
 未だに結婚していないということは、特に結婚する気もないのだろうと窺える。
 何か言いたげに黙りこんだ高志医師に私は首を振ってみせた。
「この話は止めにしましょう。いきなり働くのは大変かもしれないけれど、・・・・・・お父様とお母様の願い通りに生き抜いてみせるわ。それよりもなぜ、医師が二つも隣の国の貴族についてこんなに詳しいのか、お聞かせ願えますか? お知り合いだったのですか」
 高志医師は私の冷めたミルクティーを温めなおしてくれた。
 遠い昔を回顧するように宙を見る。
「流浪していた頃の話です。紗那国の街中で、あの家のお嬢さんに惚れ込んでしまったのですよ。それが、静氏と栖氏のお母上に当たる、志樂家の現当主の方なのです。詩絵お嬢様がご結婚のことでこちらに戻られた際、私が恋したお嬢さんの息子さんたちを見たことで感傷にかられて、つい文を送ってしまいました。そうすると、向こうも私のことを覚えていたらしく――流浪して暮らす者がよほど珍しかったのでしょう――なんと返事がきましてね。それから、そう頻繁にではないのですが、折あるごとに彼女とその旦那さん、二人と文を遣り取りするようになりました」
「なんだか世間って狭いのね」
「そうですな。栖氏が一向に結婚しないということも、話題に上がっておりました。今年で二十八歳というお年になるので、当主継承準備も始めておられるようです。無論、エウールの芸術大学に在学している頃からの建築家という仕事も続けられるそうですが」
 一度だけ、お姉様たちが通っていた芸術大学の文化大祭に行った時のことを思い出した。お姉様の彫刻も静さんの絵画も栖さんの設計した小さな建築物も本当に楽しかったけれど、何よりも栖さんと一緒に見て回れたのが嬉しかったのだ。三年ほど前だっただろうか。
 それ以来会っていない。
 会ったのは数回しかなく、あとは文の遣り取りで繋がっていた人。
 この気持ちが恋でも憧れでも、とにかく彼は私の心を焦がすのだ。
「最後に楽しいお話が聞けてよかった。――もう、行きます」
「・・・・・・そうですか」
「未熟な私に、あなたは色々なことを教え励ましてくださいました。感謝しています」
「私こそ。ここでの生活は、二人のお嬢様のおかげで実に愉快なものでした。他国の地でも、どうか健康に気を付けてお過ごしください。あなたのご多幸を祈っています」
 静かに、けれど力強く握手をして、私は医療小屋を出た。
 花の咲き乱れる庭園を歩いて屋敷へと戻る。庭師がいなくなっても花は美しく咲くことに、救われる気持ちになった。見知らぬ地の雑踏の中でも私は咲いてみせる。今はお姉様がたの助けを借りなければいけないけれど、すぐに独りで歩いてみせる。
 屋敷の正面玄関へ行くと、市井で乗りまわされているような実用的な格好の馬車が停まっていた。鳳家のものではない。――国民主義党のものだろうか? 彼らは貴族の屋敷に押しかけては誹謗中傷のような論説を浴びせかけて帰って行くという。
 ふと、御者と目が合った。異国人らしい。
 彼は愛想良く、私に会釈をしてきた。私も会釈し返して、玄関の重厚な扉を開く。
 とりあえず国民主義党の馬車でないのは分かった。なんの客人だろうか。
 屋敷の中は静まりかえっている。恐る恐る応接間の方へ行くと、扉の前にお母様が立っていた。とすると、お父様の客人だろう。息を潜めてお母様の傍へ寄った。
「お客様がいらして――お母様?」
 そこで気付いた。
 俯いている母の唇は噛み締められていて、涙が頬を伝っている。
「どうなさったのです」
 答えられない様子で、母は白い手で口元を押さえる。
 いてもたってもいられなくなって、応接間の扉に手を掛けた。一瞬迷ったが、すぐに心を決めて扉を開く。これから何があっても怖気づいてはいけないのだから。
「失礼いたします」
 声を張って前を向いた時、私の目には幻が映っていた。
 驚いた表情をしていたそのひとの幻が、やがて満面の笑みを浮かべる。
 夢幻ではない、現実。
 ――栖さんが笑って私を見ている。
「こうして会うのはもう三年振りくらいになるかな。静と詩絵さんが忙しいから俺一人だけど、迎えに来ました。独りで隣国まで行くのは危ないし」
 それだけのことじゃお母様は泣かない。
 驚くほど冷静な気持ちで――逢えたという実感が湧いていないのだと思う――見つめる私に、彼はなお優しい瞳で言った。
「今、公爵と話していた。最終的にお嬢さんの意志を尊重するが、あなたを貰い受けたいと」
 あまりにも都合が良すぎて、やはり夢なのではないかと疑った。
 夢。
 あのひとが生きる世界。



「諦めるの?」
「諦めない。諦めは執着をなくすことだ」
「ちゃんと約束して。私も約束するから」
「何を?」
「どのくらい掛かっても、あなたをこの長い夢から解放する」

「約束」



 頬を涙が伝う。
 それが栖さんの申し出のせいなのか、かつて夢の中で交わした約束を思い出したせいなのかは自分でも分からなかった。
 お父様が私を見る。その眼にも少し膜が張っているようにみえた。
「これ以上ない申し出だ。愛結、私から言うことは何もない」
「――少し、話そうか」
 泣き出してしまった私に、栖さんは困ったような表情で言う。
 温かく大きな手にそっと背中を押されて、私は栖さんと一緒に応接間を出た。
 お父様とお母様のことも、朱鳥さんの夢のこともきっと解決していないのに。
「どうして泣くんだ」
「――私、は」
 どうすればいいのか分からない。
 受ければ父母は喜ぶだろう。高志医師も。
 受けなければ恐らく父母は悲しむ。
 でも。
「私だけ幸せになるのは、いや」
「・・・・・・」
 栖さんは私の呼吸が元通りになるまで傍にいてくれた。
 私はこんな状況になってから、たまにうまく息ができなくなることがあった。
 軟弱だから、何もできないから優しいひとたちに守られる。
 そんな守護なんて要らないとはねつければ、私は多分生きてはいないだろう。けれど私は、何かを犠牲にしてまで私を守ってほしくなんかないのだ。私に幸せになってほしいと願ってくれるように、私だって相手の幸せを願っているのに。無力だから、いつも与えるものと与えられるものが釣り合わない。
「高志医師のところで少し待っていて。もう一度、公爵と話をしてくる」
「医師を、ご存知なのですか?」
「お嬢様のことを知らせてくれたのは医師だよ。その気があるなら迎えに来てくれと」
 栖さんは背筋を伸ばし、大股で再び応接間の方へ歩いて行った。
 私は中庭へ出て、ただ言われたとおりに医療小屋の扉を叩いた。

「ノックもせずに飛び込んでくるお嬢さんは、果たして無礼者とは言わないのかな」

 初めて浮さんと交わした会話。
 私はあれから、どんなに急いでいてもノックだけはちゃんとするようになったわ。
 浮さん、あなたは元気? 朱鳥さんはどうしていますか? あの御者さんは元気でいる? あなたの妹さん――と偽っていた方は? 東の方で奔放に流浪しているかしら。
 私はあれから朱鳥さんの夢を見ることもなく、ただ情勢に流され、守られて生きています。
 絶対に声には出さないから、いわせて。
 つらいの。




風の前の灯し火

 



 



 



 

広告 [PR] 紅葉めぐり わけあり商品 ヒートテック 無料レンタルサーバー ブログ blog